INICIAR SESIÓN翌朝。
リゼットは、朝食を終えるとそのままヴァルドの執務室へ向かった。
用事はある。
昨日の市で買った狼のしおりを、彼が本当に使っているのか確かめたかった。
もちろん、それだけのために公爵の執務室へ押しかけるのはどうなのだろうとも思う。
けれど、昨日ヴァルドは「使う」と言った。
本当に使うのか。
どうしても気になった。
扉を叩く。
「入れ」
中へ入ると。
ヴァルドは、すでに仕事を始めていた。
窓際の大机。
積まれた報告書。
インク。
封蝋。
そして。
「あ」
声が出た。
ヴァルドが顔を上げる。
第42話 昔の婚約者から、今の私へ王太子アルベルトからの手紙が届いたのは、新しいペンをもらってから二日後のことだった。それは王家法務局の正式文書とは別便で送られてきた。王家の封蝋ではない。王太子個人が使う、金の獅子と百合を組み合わせた紋章。リゼットは、その封筒を見ただけで誰からのものなのか分かった。記憶は残っている。アルベルトのことは。幼い頃から婚約者だったこと。一緒に王宮の庭を歩いたこと。勉強をしたこと。叱られた時に慰めてもらったこと。そして。最後。ミレイユの呪いを引き受けろと言われたこと。『もし私のことを忘れたとしても、また思い出を作ればいい』あの言葉も。まだ。覚えている。だから。封筒を受け取った瞬間。指先が少し冷たくなった。「開けるか?」向かいにいたヴァルドが尋ねる。場所は小会議室だった。法務官も。ノエルもいない。王都から個人的な手紙が届いたと聞き、ヴァルドが一度リゼットへ直接渡すことにしたらしい。「私宛てですよね」「ああ」「なら読みます」「今でなくてもいい」「今読みたいです」ヴァルドが少しだけ眉を寄せる。「無理をするな」「無理かどうかは、読んでみないと分かりません」言ってから。少し笑う。「また、先に決めようとしました?」ヴァ
第41話 黒狼公爵の贈り物は可愛くないヴァルドが贈り物について悩んでいるらしい。そんな話をリゼットが耳にしたのは、本人からではなかった。昼前、資料室へ入った途端、ノエルが妙に気まずそうな顔で机の上の紙を裏返したのである。「今、何を隠しました?」「何も隠していません」「では、その紙を見せてください」「これは業務とは関係のない紙なので」「余計に気になります」ノエルは目を逸らした。その隣でガレスは黙々と仕事を続けているが、いつもより筆の動きが速い。こういう時のガレスは、絶対に事情を知っているのだとリゼットも最近分かってきた。「ガレス」「私に振らないでいただけますかな」「まだ何も聞いていません」「聞かれる前にお断りしておきます」「それなら、やっぱり何かあるのでしょう?」返事がない。リゼットはノエルへ視線を戻した。「見せてください」「嫌です」「どうして?」「俺の命が惜しいので」「そこまで?」「大げさではありません。閣下に知られたら、本当に一週間くらい嫌な仕事を回されます」それは少し見てみたい。いや、違う。「公爵様に関係するものなのですか?」ノエルが黙った。答えたも同然だった。リゼットは机を回り込もうとする。ノエルが慌てて紙を持ち上げ、背中へ隠した。「リゼット様」「何です?」「夫婦でも、見ない方がいいものはあります」「それは正論ですけど、今言われると怪しすぎます」
第40話 それは求婚ですか、政治交渉ですか婚姻継続意思書へ署名した翌日、リゼットは少しだけ後悔していた。婚姻を続けると決めたことではない。そこについては、朝になっても気持ちは変わらなかった。ヴァルドの妻でいる。北方に残る。もっと彼を知っていく。それは、今の自分が選んだことだと思える。問題は。昨夜、記憶帳へ書いた最後の一文だった。『好きになってはいけない理由も、もうない気がする』朝。目覚めて。最初にそれを読んだ時。リゼットはしばらく寝台から出られなかった。「……何を書いているの、私は」自分で書いた。誰にも強制されていない。眠気に負けていたわけでもない。昨夜は確かにそう思った。だから。消すのも違う気がする。しかし。この記憶帳は。ヴァルドも読む。そこ。完全に忘れていたわけではない。でも。書いている時には。ほとんど意識していなかった。「公爵様が読んだら」顔が熱くなる。好きになってはいけない理由もない。これは。かなり。危険な文章ではないだろうか。好きです。ではない。でも。好きになるかもしれません。くらいには。読める。いや。
第39話 今の私も、この結婚を選びます翌朝、リゼットが目を覚ました時、最初に見たのは枕元の記憶帳だった。昨夜書いた最後の一文。『今の私が、この結婚を選びたいと思えたら、その時は自分の名前で答えたい』そこまで書いて眠った。答えはまだ出ていない。そう思っていた。けれど、一晩眠ってみても、胸の中に残っている感情は変わらなかった。ヴァルドに婚姻を解消しても構わないと言われた時。嫌だった。王都へ戻れと言われるのも嫌。昔の婚約へ戻されるのも嫌。それ以上に。ヴァルドの妻ではなくなることを想像した時、胸の中から何かを引き抜かれるような感覚があった。恋。なのかもしれない。まだ、その言葉を簡単には使いたくない。けれど。ここにいたい。それは。もう。かなりはっきりしている。「……そういうことなのかな」独り言。誰も答えない。だから。自分で考える。この結婚が始まった理由。王家から自分を守るため。強制的に王都へ連れ戻されないため。恋愛ではなかった。ヴァルドも。自分も。そこは正直だった。でも。始まりの理由と。今続けたい理由が。同じである必要はない。リゼットは寝台を出た。顔を洗う。着替える。
第38話 王都から届いた婚姻無効の訴え王都からの使者が北方砦へ到着したのは、ミレイユが資料室の見学を始めて三日目の昼だった。その日は朝から雪が降っていたものの、風は弱く、砦の中には久しぶりに穏やかな空気が流れていた。リゼットはノエルと一緒に歴代祈紡ぎの記録を年代順へ整理し、ミレイユは少し離れた席で古い王宮関係者の名簿を読みながら、分からない名前が出てくるたびにガレスへ尋ねていた。「この人、王宮魔術院長と書いてあるけど、その次の年には神殿へ移ってる。どうして?」「それだけでは分かりませんな。栄転かもしれませんし、実質的な左遷かもしれません」「王都では、左遷なのに『ご本人の信仰心が厚く』とか言います」「北方でも似たようなものですよ。人間は都合の悪いことへ、もっともらしい名前をつけるのが好きですから」「それ、お姉様たちが調べた祈紡ぎの『療養』とか『静養』と同じ?」ガレスの表情が少しだけ変わった。「……そうかもしれません」以前なら、リゼットは妹がそういう話へ深く踏み込むことを止めていたかもしれない。まだ回復途中なのだから、重いことは知らなくていい、怖いことは自分が引き受ければいいと思っただろう。今は何も言わず、自分の書類へ視線を戻した。ミレイユが知りたいと言ったのだ。なら、自分で知って、自分で怒って、自分で迷えばいい。その代わり、疲れていないかだけは時々見る。そこまでなら、たぶん過保護ではない。「リゼット様」ノエルに呼ばれ、顔を上げた。「何です?」「今、妹君の方を三回見ました」「……そんなに?」「はい」「監視ではありません」「分かっています」
第37話 妹はすっかり元気で、少しうるさいミレイユが「もう寝台の上でおとなしくしている必要はありません」と医師から言われたのは、リゼットが湖へ出かけた翌日の朝だった。ただし。完全に元通りという意味ではない。呪いによって長く体力を奪われていた身体は、見た目ほど簡単には戻らない。高熱が続いた期間も長かったし、北方まで無理な移動をしたこともある。だから医師は、散歩は一日二回まで、階段は一度に上り下りしすぎない、食事を残さない、疲れを感じる前に休むように、と細かく条件をつけた。「最後の一つ、難しくない?」診察を終えたミレイユが不満そうに尋ねる。「難しくない」医師は即答した。「疲れる前にどうやって分かるんですか」「少し息が上がる、身体が重い、集中しづらいなど、前触れがあります」「でも、その程度ならまだ動けますよね」「動けるから動く、を繰り返した結果、北方まで病人の身体で逃げてきたのはどなたでしたか」ミレイユが黙った。横で聞いていたリゼットは、思わず口元を緩める。「笑わないで、お姉様」「笑ってない」「口が笑ってる」「少しだけ」「最近、お姉様、私に遠慮なくなったよね」その言葉に。リゼットは一瞬だけ、考えた。以前の自分なら。妹の機嫌を損ねないように。病人なのだから。つらいのだから。と。かなり気を使っただろう。ミレイユが少し不満そうな顔をするだけで、すぐに「ごめんなさい」と言ったかもしれない。今は。「嫌?」聞いた。







